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「楯の会」創設者の畏友・持丸(松浦)博くんを偲ぶ(2)
――平成25年11月、「大人命五十日祭・偲ぶ会」

 持丸くんの葬儀は、彼の意思により神式での家族葬(密葬)のみで行い、一般の人たちとのお別れ会は、「仲間の人たちを呼んで、静かに送ってほしい」という彼の意思を汲んで、平成25年11月17日の日曜日に、土浦市の「ラ・フォレスタ・ディ・マニフィカ(旧平安閣)」で、「持丸博(松浦博)大人命五十日祭及び偲ぶ会」として行われた。祭主は長男独身の松浦威明さんで、50歳代からの闘病生活と、1年3カ月にわたって食べることも話すこともできない入院生活を献身的に捧げてきた人と並んで、発起人代表はじめ関係者が次々に献花した。

会場には、橋本茨城県知事や手塚元県会議長らが参列

 「偲ぶ会」に移り、まず発起人代表の手塚克彦くん(元茨城県議会議長。彼とは、やはり水戸一高時代のクラスメートで、同じ軟式野球部に所属し、彼はプレイはせず、口が達者なマネージャーだった。昭和37年のキューバ危機の際、彼は「戦争だ、戦争だ」と教室の中を駆け巡って、当時の前衛的な雑誌『世界』を読んでいたので、彼から借りて政治に目を開かせてくれた)が、挨拶に立ち、「持丸くんとは、同じ石岡地域で、親戚関係でもあって、最近までも彼と『しきしま会』を結成して、ボクが会長、彼が事務局長として表に立たずにやってきた。」とし、この間の長い闘病生活の様子を報告した。

【写真説明】
持丸博くんの「大人命五十日祭・偲ぶ会」に参集した仲間の記念撮影

 来賓挨拶は、1年後輩の橋本昌茨城県知事が立ち、「選挙のたびに応援してもらった。私は持丸先輩ほどの深い学問もなく、大学時代の全共闘時代はどっちつかずの日和見派で過ごし、昭和45年の三島事件の時は役人生活でビックリした。あとで、持丸さんと知り合い、大変尊敬している」と述べた。続いての献杯は、剣道一筋、北辰一刀流の無形文化財保持者で茨城県警出身のクラスメート・高山陽好くんが、「水戸東武館でクラス会をやったとき、持丸くんが『文武』のいわれを、とうとうと長時間話してくれ、大変勉強になった」と、故人の想い出を語ってくれた。持丸くんは、人と人との絆、関係を大切にしてきただけあって、楯の会の同志・仲間はじめ、各界各分野の関係者約100名ほどがお別れに来た。

 最後に、祭主の松浦威明さんが御礼の挨拶に立ち、「入院前に、父の手記があって、それが遺言となった。父は水戸学に詳しく、日本が遺した水戸学を縦軸とした唯一の宝を見つけた思いである。私は政治の道を進んだが、尖閣問題等はなんどもよく父に聞いた。父からはその都度、まともな返事がかえってきた。父が残した数々の言葉をどうしても残しておきたいし、そのためにも今、水戸学を猛勉強中です」と述べた。彼はまた、平成25年12月下旬、偲ぶ会の会葬者に届けた御礼状に、「父は、三島事件後はあまりの衝撃に硬直状態となり、その意義を模索し続けた人生でした。私が父の死に向き合うためには、(割腹自決した)三島由紀夫と森田必勝の最後を抜きに語ることはできません。父の一生は、彼らによって途轍もなく大きな重しになっていたからです。最後に見た父の後ろ姿は間違いなく『国士』でした」と書いている。

理知的理性的で、広い寛容の心を持っていた持丸くん

 発起人代表の手塚くんが話した「しきしま会」では、平成17年4月に「戦後60年に当たっての声明」を出し、その中での「われわれの主張」として、①憲法改正とその視点について、②治安対策の強化について、③教育の正常化と国民教育の推進について――の3点にわたって、強烈な右寄りナショナリズムの主張をストレートにしている。平成21年7月には、つくば学園都市のオークラホテルつくばの会場で、「しきしま会結成5周年記念」の「田母神俊雄・前航空幕僚長を囲む夕べ」を催した。

 持丸くんがあとで、「大盛況だったよ。会場に人が入り切れなくなるほど集まった」というから、ボクが「冷静な君が、いくらなんでもあの程度の田母神なんぞに、どうして力を入れているんだね。彼は、核兵器は保有すべきだとか、大東亜戦争は白人国家の侵略から解放する戦いだったとか、その他もろもろの発言は過激で、筑波だけでしゃべっているならいいが、好戦主義者と国際的に見られてしまう無茶苦茶言っているんだよ。」と言ったら、彼は、「“あの程度の”と大越くんは言うけど、それならどうして彼が防衛庁の中で航空幕僚長にまで昇りつめたんだろうか。彼は自衛隊の時から持論を展開して、あのポストまでついたことを思うと、自衛隊の中に彼のそうした考えの構造的基盤があるんだと思うよ。ジャーナリストの大越くんなら、防衛庁の人を知っているだろうから、聞いてみたらどうかね」と即座に切り返され、彼のいつもの鋭い分析力の言葉に感心した。今となってはそれも懐かしい会話だ。こうしたやり取りができるほど、持丸くんはそこら辺にいくらでもいるエキセントリックで声高な、狭い視点の受け売りナショナリストでは毛頭なく、非常に理知的理性的学者的で、価値観の違うボクとも互いに理解しあえる広い寛容の心を持っていた。ボクがやり玉に挙げたその田母神氏が今、東京都知事選に立候補している。

(つづく)

日本不動産ジャーナリスト会議(REJA)

 
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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