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「2.28事件」76年前の台湾人の反乱!!
~台湾の秘された悲しい暴動の歴史

日本人で、戦前のクーデター未遂事件「2.26事件」(1936年)を知らない人は、ほとんどいない。しかし、同じ戒厳令が敷かれた戦後の台湾での、台湾人による民衆暴動の大反乱「2.28事件」(1947年)を知っている日本人は、ほんのわずかであろう。

記者は、バブル華やかし頃の35年前、ヒョンな出会いから、それを体験した台湾・高雄市出身の古老と親しくなった。古老は都内のガード下で中華料理店を出していた。その店で、「2.28事件」の顛末とその後の彼の青春時代の数奇な運命を直接聞かされ、強い衝撃を受けた。しかし、そのまま沈黙を保ち、今日が来るまで長い間、心の中に閉まっておいてきた。

ところが昨今、ロシアのウクライナ侵攻で世界情勢が一変、われわれの周辺にも戦争のキナくさい臭いがしてきた。日本の上空を通過していく度重なる北朝鮮の弾道ミサイルの発射に加え、米中緊張・中台紛争による「台湾有事」が、現実味をもって語られるようになってきた。折から、岸田首相の「敵基地攻撃能力」の容認や防衛費の倍増・増税も現実的になってきた。こうした状況を機に、「台湾問題」の深い根っことなっているところの「2.28事件」の扉を、聞きかじりではあるものの、古い記憶を頼りに開くことにした。

戒厳令が敷かれ、白色テロが横行

「2.28事件」―――。それは、1947(昭和22)年2月28日、台北市で起きた。それまでの台湾は、1945年の日本敗戦により、50年間続いた日本の台湾支配が終わりを告げ、蒋介石率いる中国国民党政府の「中華民国」が新たに占領し始めてわずか、1年半後のこと。

占領した中国人たちは皆、中国大陸から渡ってきた低レベルの野蛮人が多く、「外省人」と呼ばれた。これに対して、昔から住みついていた現地の「本省人」といわれる台湾人(そのルーツは漢民族ではなく、「高砂族」に代表されるマレー・ポリネシア系の諸民族など)は、彼ら外省人の国民党政府の役人、軍人によって差別、迫害され、些細なことでもすぐさま弾圧された。それに耐えきれなくなり、2月28日、とうとう不満の怒りを爆発させた。

ことの起こりは、外省人の小役人が、タバコ売りの本省人の女性に暴行を加えたことから。直ちに民衆の抗議デモとなって、騒ぎが拡大。このため国民党政府は、その抗議デモに対してすぐさま発砲し、死者が出た。これで民衆の怒りは頂点に達し、日頃のうっ屈した不平・不満を大爆発させた。たちまち燎原の火のごとく台湾全土に広がり、手の付けられない暴動となった。国民党政府の各地の公共施設を襲撃し、駅や飛行場なども占拠した。ここで国民党政府は、大陸にいる蒋介石に援軍を要請、直ちに師団と憲兵隊が派遣され、反乱部隊の一斉鎮圧に入った。

その弾圧は激しく、台湾人の裁判官、医師、役人、日本統治時代のエリート層らが続々と逮捕・投獄され、その多くが無慈悲的に虐殺された。正確な犠牲者は今もって不明で、2万人とも10万人ともいわれている。まもなく、台湾全土に戒厳令が発令され、それがなんと、1987(昭和62)年までの長期間継続し、国民党独裁政権の白色テロ、恐怖政治が続いた。

おかげで記者も、その戒厳令の被害に遭ってしまった。台湾当局の招きで、初めて台湾経済事情の単独取材に出かけた時、1981(昭和56)年のこと。際どい軍人集団の写真を撮ったかどで、その場でフィルムを没収されてしまった苦い思い出がある。その時まで、戒厳令が続いていたことなど、まったく知らず、台湾当局からも事前に知らされておらず、その時もめて初めて聞かされ、驚いた。

余談はさておき、戒厳令が敷かれてからは、台湾人の多くが沈黙を強いられた。 身を隠したり、国外に逃亡したり、その弾圧は苛烈を極め、次第にこの事件についてもタブーとされてきた。

台湾脱出、新中国誕生時の北京へ。一転逮捕・獄舎に!?

国外に逃亡した中に、その後の数奇な運命をたどった一人の青年がいた。その青年が、冒頭に述べた高雄出身の古老である。その逃亡先も香港や日本でなく、何と北京へ。それも誕生したばかり(1949年10月1日、中国共産党の「中華人民共和国」が成立)の毛沢東共産党政権の赤い国に。

それから40年が過ぎた―――。古老は東京にたどり着いて、ガード下で中華料理店を営んでいた。そこで古老は、東京に来るまでの経過を、事件の顛末とともに、たどたどしい日本語で、ちぎれちぎれにボソボソと話してくれた。

『私は台湾の南、高尾に生まれ育ち、青年になるまで日本語を学んだ。1945年、日本統治が終わり、大陸からきた中国国民党が支配し始めた。当初は、日本の植民地支配からようやく抜け出せると、国民党政権を歓迎したものです。若い青年心に、祖国・中国に戻れると思ったものです。』

『ところが実際、国民党の役人、軍人が来てみると彼らの質が悪く、強盗、強姦、殺人を犯すものが平気で出てきて、役人らの汚職も目に余るほどひどく、まったく失望しました。特に私の地元の高雄でも、激しい民衆暴動が起きましたが、すぐに蒋介石の指示で大陸から軍隊が増援、派遣されてきて、民衆に対して無差別の武力掃討を行ったのです。虐殺ですから、数えきれないほどの死者の山となりました。』

『ようやく、日本の植民地支配から解放されたと思ったら、今度はもっとひどい蒋介石国民党独裁政権の恐怖政治となった。夢多き青年だった私は、絶望しました。そこで希望の光を見いだしたのが、北京市に誕生した「毛沢東の共産党政権」でした。なんせ腐敗した憎い国民党を打倒してくれて、正義の革命が勝利し、人民の味方の人民の政府ができたのですから。そこで一目散に台湾からの脱出をして、建国したばかりの北京の天安門広場に馳せ参じました。人民のための新中国が誕生し、差別も抑圧もないという自由と平等の解放された新国家にあこがれたのです。』

『あこがれの天安門広場に一人、私は旗を立てて立ち、「毛沢東万歳」「共産党万歳」と叫んでデモをしたのです。ところがですよ、逮捕・拘束されてしまったのです。考えてもいませんでした。どうして逮捕され、牢獄にぶち込まれたのか、理由もわかりません。その後、国内のアチコチの獄舎に移され、数年間の獄中生活。これが夢破れ地獄と化した新中国での現実の結果でした。どうやら、「国民党さしがねの台湾人スパイ」とされたらしいのです』———と。

古老は、このようにすさまじい有為転変の人生を送ってきた。蒋介石独裁の台湾圧政から逃れ、あこがれの新中国誕生の天安門の人民広場に駆け付けたら、予想もしない逮捕と牢獄送り。この話を聞いて思わず、古老の顔が、「阿Q」(辛亥革命期に書かれた魯迅の著作『阿Q正伝』の主人公)の顔のように見えてきた。
ここにも、もう一人の阿Qがいるような気がした。悲しい話ではある。

(なお、後日談ではあるが、10数年前、そのガード下の中華料理店を訪ねたが、店は消えていた。あの古老は、まだ生きているのだろうか。店の名物だった高価な台湾天然記念物のカラスミの味が、忘れられない。)

習近平独裁政権の「台湾侵攻」はあるか――

台湾はその後、1998(昭和63)年に本省人の李登輝総統が誕生し、それまでの蒋介石国民党独裁政権から、民主主義体制へと大きく転換した。法に基づいた民主化を図り、言論の自由も認めた今日の民主国家を実現させた。

そして今、「中華民国」の台湾は、中国共産党の習近平独裁政権の脅威にさらされ、政治的にも経済的にも大きな岐路に立たされている。習近平国家主席は今なお、「台湾の武力統一は放棄していない」と公言している。2024年の台湾総統選の結果次第では、情勢が急転する恐れが十分あり、習主席の出方次第で何を仕掛けてくるか楽観視はできない。「台湾侵攻」の有事が、突如起こってくる可能性すら否定できない。

かつて台湾を支配していた日本を、警察の「犬」に例えて台湾では『犬(日本)が去って、豚(中国国民党)が来た』といわれたそうだが、『今度は「狼」(習近平の中国共産党)が来た』とならなければよいが・・・。

(2023.1掲載)

掲載:会報「サロン・ド・ムッシュ」2023.1月、冬号

 
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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